ただ 頼む心

南 無 阿 弥 陀 仏                      圓 福 寺  池 田 常  臣

読売新聞に掲載された、ある中学生の【伝えたい言葉】という詩があります。 

たった一言が言えなくて「ありがとう」が どうしても言えなくて

たった一言なのに言えなくて いつも先送りしている言葉 さりげない優しさに向かって

「ありがとう」が言えなくて 大事な気持ちなのに言えなくて

今 一番伝えたい言葉 いつも笑顔を向けてくれるのに

「ありがとう」が言えなくて ごめん 自分に勇気がもてたら

いつか必ず言おうと思った言葉 心からの「ありがとう」 

 私たちは、日々の生活の中で、色々な人とのやり取りや関わりがありますが、人に言葉を伝える時、果たして、どのくらい素直に自分の気持ちを込めて、心から言葉を、発しているでしょうか・・・

 何か頼む時の「お願いします」、感謝の気持ちをあらわす「ありがとう」や、あやまる時の「すいません」・・・口先だけなら言えるかもしれないけれど、相手を目の前にした時、自分の心の中に本当にその気持ちが無いと、心のこもった言葉は、言えないものです。

日々の生活を冷静に振り返ると、意外と少ないのかも知れませんね。

 色々な場面で、相手に素直に自分の気持ちを伝えることは、大切なことですが、その場合まずもって、こちらからしっかり「伝えよう・伝えよう」と、心を込めることが大事であります。また、そうしなければ、相手に伝わりません。 

 そんな私たちが毎日の信仰という生活の中で、心のこもった自分の気持ちを、お伝え致す、そのお方はどなたでありましょう・・ そう・・それは阿弥陀様ですね。

 そしてお伝えする、大切なお言葉は、それは「南無阿弥陀仏」ですね。毎日阿弥陀様に対して、「お助けください・どうぞ宜しくお願いします」と心を込めて、心を乗せて、南無阿弥陀仏と声に出してお称えすることであります。

それでは「南無阿弥陀仏」とお称えする時や処は、どのようにしたらよいのでしょうか・・・

法然上人は、「いつでもどこでも 行住坐臥 時処諸縁をきらわず」 とお示しであります。

 行くも、止まるも、座るも、臥すも 動いている時も、じっとしている時も、座っている時も、寝ている時も、いつでもよいのですよ。そして、時やところを選ばず、また楽しい時も、悲しい時も、つらい時も、いずれの心持の状況でもよいのですよと、有り難くお示し頂いております。

 いつでもどこでも、「お助け下さい・どうぞ宜しくお願いします」と心を込めて南無阿弥陀仏と、お伝え申し上げるのであります。 

『ただ頼め 頼む心があるならば 南無阿弥陀仏を 声に出だせよ』 

 頼む心があるならば、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 と声に出してお称えさせて頂く、そこが大切なのであります。いつでも、どこでも、どんな時でも、阿弥陀様の本願を信じ、声にしっかり出してお称えするのです。 

 南無阿弥陀仏のお名号には、それこそ沢山の計り知れない功徳が、込められているのです。称え始めたその時から、阿弥陀様はしっかりとお守り下さり、この現世では、・・・まさに今生きている時には、お慈悲の光明に照らされ、心やすらかに過ごさせて頂け、人間世界の縁が尽きた時には、必ずお迎え下さり、西方極楽浄土へとお救い頂ける。

 そしてお浄土では、御先祖様にお出会いさせて頂き、阿弥陀様にしっかりと守られながら、悟りに向けて仏様にまで、お育て頂けるのであります。それだけ全てのことが、「南無阿弥陀仏」の六文字の中に含まれているのです。 

 お一人お一人が今以上に阿弥陀様の本願を信じて、南無阿弥陀仏と声に出して、お称えを続けていかれることを念願申し上げます。                             合掌十念

死の縁は無量 常日頃のお念仏が大切

南無阿弥陀仏   圓福寺 池田常臣

念仏者の大きな目標は、西方極楽浄土に往生させていただくことであります。

お念仏を、声に出してお称えすることを相続することにより、間違いなく極楽往生が叶うのであります。特別難しいことをするわけでありません。阿弥陀様のお救いを信じて、南無阿弥陀仏のお念仏を声に出してお称え続ける、それだけで良いのであります。

私達は、元気でいられること、生きることを前提にして毎日を過ごしていますが、そうではないのですね。むしろ死ぬことを前提にして、そのことを心に思い、お念仏を称えながら、日々有り難い思いで、過ごさねばならないのだと思います。生きることを前提でなく、死ぬことを前提にするということですね。

法然上人は、人がいつどのような形で死を迎えるかわからないことを「死の縁は無量」と捉えられています。

「人がどういう縁で死ぬかは、かねて思っていたようにはならないようだ。大通りで死ぬこともあるし、便所で死ぬ人もある。太刀や刀で命を失い、火に焼け、水におぼれて命をなくす例も多い。そのような形で亡くなろうとも、日頃念仏を申して、極楽へ参る心でいる人ならば、息の絶える時に弥陀・観音・勢至がやってきて迎えてくれる。そう信じてお念仏を称えなさい。」

このように、「死の縁は無量である」ということについて、自分がかねてから、このような形で最期を迎えられたらいいなと思っていても、思い通りにはそうそうならないものですよ。道路を歩いている時やトイレで死ぬ時もある。また戦乱や火災に巻き込まれたり、水におぼれたりというような自然災害に遭うこともある。

いつどのような形で死を迎えるかもしれないが、常日頃お念仏を称えていれば、必ず阿弥陀様 観音・勢至菩薩様のお迎えをいただけるのです。そう信じてお念仏をお称えしなさい」とのお示しであります。いつ如何なる時に、どうなるかわからないこの命であるからこそ、いつも南無阿弥陀仏とお称えしていることが、実に大切なことなのです。

常日頃お念仏を称えていれば、いつこの身に無常の風が吹いても救われる。

「だからこそ、常日頃の念仏、平生の念仏が大切であり、念仏を続けることが肝要なのです。」そのように、法然上人は受け取られて、お示しなされておられます。 

万が一、この我が身の上に、突然無常の風が吹いたとしても、心配ないのです。常日頃お称えしていたお念仏により、間違いなく阿弥陀様がお迎えに来て下さいます。さらには、最後臨終の間際、阿弥陀様がお迎えに来て下さるその御姿を、目の当たりにご覧になったならば、現世に対する執着の心や迷いの心、死後の不安の心などから解放させていただけます。そして、落ち着いた、心が乱れない状態(正念)にさせていただき、極楽浄土へ救い取っていただけるのです。 

最後臨終の夕べ、心の乱れない状態にさせていただき、阿弥陀様のお迎えを頂ける。ここがお念仏を相続することの有り難さであります。恐れや不安にさいなまれることなく、極楽往生が必ず叶うのであります。 

私達の人生の目標、帰趨、落ち着き先は、西方極楽浄土であります。ここに菩薩となって往き生まれることが往生であり、ここにまします阿弥陀様から御説法をいただいて、晴れて仏様にお育ていただくこと、これが成仏するということなのです。 

そして仏となった暁には、この娑婆の世に生きる人々が、迷いの人生のままおわらないようにと、お念仏の教えに導き、極楽浄土に参って頂くよう導いてあげるのです。これが念仏を称え、仏道を歩む私達の最終目標であります。 

私達は、この極楽往生という目標に向かい、阿弥陀様のお浄土に生まれたい、どうか御助けくださいとの心持ちで、お念仏をお称えしたいものです。 

此の事を正しく受け取り、共に念仏相続に励んでいきましょう。 合掌十念

『念仏を称える人の心がけ』

 

  1. 「人として生まれた有難さ」

法然上人法語

「ある時には、人身のうけがたきことわりを思いて、このたびむなしくやまん事を悲しめ。」

 人としてこの世に生を受けることは、有難いこと、有ることが難しいことなのです。そんなことよくよく考えたことなど無いよ、という方もおいでかと思います。今元気でバリバリと働いている方、目標に向かって一生懸命に頑張っている方にとっては、人として生まれることは難しいことだ、そのように思う機会が少ないかもしれませんね。

 また、定年を迎えようとしている方や、定年後の人生をそれぞれに歩まれている方にとっては、これからの人生設計のことが大切であって、「人として生まれさせて頂いたこと」が、どうのこうのということではないよ、と言われるかもしれません。

 しかし、よくよく考えてみて下さい。様々な良い縁がいくつも重なり合って、ようやくこの人の世、人間界に生まれさせて頂いたのであります。法然上人も「人の世に生まれることは、はるか天上の世界から、糸をすーと垂らして、その糸が、海の底に沈んでいる針の穴を通すが如く、有り得無い位難しいことなのですよ」と、お示しされ、それだけ人として生まれさせて頂くことは、難しいことだと譬えられているのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせて頂いているこの私達の心がけとして、折にふれて、人として生まれさせて頂いたことは、実に有難いことなのだなー、あたり前のことではないのだなーと、我が身に照らし味わいながら、お念仏のお称えを毎日続けて参りましょう。

 

「驕慢の心をつつしむ」

南無阿弥陀仏

 故吉川英治氏は、『宮本武蔵』や『新平家物語』で著名な作家ですが、亡くなる二年前の昭和三十五年、文化勲章を受章されました。その授賞式の朝、このような句を詠まれて
います。

「菊の日や もう一度紺がすり 着てみたし」

「日本の中で、ほんのわずかの人しか貰うことのできない最高の栄誉をいただくことになったけれど、自分はそんな立派な勲章をもらえるような人間ではない。それなのにもったいないことだ。ここで威張ってはいけない。そり返ってはいけない。今こそもう一度、あの紺がすりの着物を着て勉強した書生時代の気持ちになって、勉強しなければ……。」
という謙虚な気持ちから詠まれた句だそうです。
 実に尊い心持だと思います。

人はこのように等別な賞を頂いたり、ある程度の地位についたりすると、有頂天になりがちです。冷静に若かりし過去を振り返ったり、つらかった時のことを思い返したりはしないものです。

吉川英治氏のように、自分自身の原点を見つめ直し、思い上がりの心を自ら治めることは実に大切でありますね。

この吉川氏が作品にとりあげられた剣豪宮本武蔵は、「我以外皆我師なり」という言葉を残しています。自分以外の、人でも物でも皆、自分に何かを教えてくれる先生だという意味です。
 私達は皆、この世に生を受けた時は、言葉も知識も何も知らずに生まれてきます。その後両親や家族、友人や仲間、学校の先生、また自分を取り巻く環境や自然などから、いろいろなこと学び、吸収して成長していきます。
 ところが、成長するにしたがっていつのまにか「素直に学ぶ心」を忘れ、相手様や人様の未熟さが気にかかるようになってはいないでしょうか。自分自身を見つめるより人様のあらが気に係ってくるのです。

 また自分と他人を比較して、自分のすぐれているところを何とか見つけ出そうとするようになってくるものなのです。

 法然上人は、このようにお示し下さっておられます。「まじめにお念仏をお称えして、いかにもそれらしい念仏者になってくると、多くの人を見るにつけて、みな自分の心より劣り、あきれるほどひどいものだ。自分こそがよいのだという思いから「私は何と立派な念仏者なのだろう。誰よりもすぐれている」と思うようになってくる。

 こうした心こそ、よくよく慎まなければならないとの仰せであります。このように、お念仏を続け、しっかりお称えができるようになってくると「私ほどの念仏者はそうそういるものではない」と奢り高ぶり、思い上がりの心が湧き上がってくるものです。しかしながら、この思いあがりの心こそ、くれぐれも起こさぬよう用心しなければならないのです。

 常日頃お念仏のお称えを続けていたとしても、このように思い上がりの心が起こったならば、肝心要の、真実、誠の心も消え失せてしまうのです。そうなると、阿弥陀様の本願にかなわぬことになり、阿弥陀様や沢山の仏様方のお守りも頂けなくなり、ついには往生することさえ出来なくなってしまうのです。

 くれぐれも思い上がりの心を起こしてはなりません。どんなにお念仏を称えしっかり継続できたとしても、阿弥陀様の本願を心から頼りとしていくことを、何より心掛けねばならぬとお受け取りいただきたいのであります。

「初心忘れるべからず」・・・どんなにお念仏をお称えする人になったとしても「私ほどの念仏者はそうそういるものではない」という思い上がりの心を起こしてはなりません。

どうぞ、此のことを正しくお受け取りいただき、共に念仏相続に励んで参りましょう。                           合掌十念

只 つねに念仏すべし

南無阿弥陀仏

圓福寺住職 池田常臣

 法然上人のお言葉に「名号をきくといふとも、信ぜずば聞かざるが如し、たとひ信ずというとも、称えずば信ぜざるが如し、只つねに念仏すべしと」

との仰せがあります。南無阿弥陀仏のお念仏を称えれば、往生できるということを聞いていたとしても、阿弥陀様の本願を信じなければ、聞かなかったことと同じでありますよ。

 また、たとえ阿弥陀様の本願を信じるといっても、南無阿弥陀仏と声に出して称えなかったならば信じていないのと同じことなのですよ。ただいつもお念仏をお称えなさい」その様にお示しされておられます。 

 南無阿弥陀仏のお念仏の教えが、老若男女すべての人々を救う教えであることを、知識として知っているということだけではだめなのであります。南無阿弥陀仏のお念仏の教えが必ずお救い下さる教えであると聞いたならば、そのことを信じていかねばなりません。

 そしてお念仏の信仰というものは、信じるということで終わりではないのです。例えお念仏の教えが必ずお救い下さる教えであると信じたとしても、称えなければ信じていないのと同じことなのです。大切なことは、いつでも阿弥陀様の本願を信じ、お念仏をお称えすることなのですよ。阿弥陀様は「わが名を南無阿弥陀仏と信じ称えてきたならば、必ず救う」とのお示しであります。その仰せの通りに、信じるならば南無阿弥陀仏と声に出してお称えし、実践していく。

 そして続けていくことが何よりも大切なことなのです。信じることと、行じ行うことが伴っていなければなりません。お念仏の信仰に於いて、信じることだけ、もしくは行じることだけ、ということは成り立たないことなのです。 

 信じなければ信じなければと、自分自身に言い聞かせることではないのです。この煩悩多き我が身をお救い下さるまさしく有り難い教えと頂いたならば、自然と信じる心、信じいきたいと思う心が湧いてくるものなのです。また信じる心が深まってきたなら、自ずと称えたくなってくるのです。称えずにはいられなくなってくるのでありまね。 

 そうすると自然と南無阿弥陀仏のお念仏のお称えが、つづけられるようになってくる。お称えが続いていくと、信仰も深まっていく。信仰が深まっていけば、お称えもさらに進んでいく。 

 そのように信じることと、行じることの関係は信じ称えるというように、両方 が相まって、信仰が深まっていくものなのであります。 

 江戸時代後期の念仏聖であられた徳本行者という徳僧の方が、このようなお歌をお残しされていいます。 

「口先で 阿弥陀仏仏 言えばよい 心なくして 言われるものか」

 これは、お念仏をただ口先で 南無阿弥陀仏と称えれば良いのですよ、しかしながら 本当に口先だけでお称えしているお念仏ならば、お称えが続くことはできません。煩悩多き 凡夫であるこの私を 間違いなくお救いいただけるお念仏であることよ。 こんな私をお救い下さる阿弥陀様の有り難さよ。とそう思ったならば、その有り難さ尊さに称えずにはいられなくなる・・ということをお歌いです。 

 それ程、尊いお念仏なのです。お慕いの心が湧いてきて、信じ称えずにはいられなくなるのですよ。というお歌なのです。 

 信じることと行じることの整うことにより、信仰が深まり、お念仏の相続もなされていくのであります。 

此の事を正しく受け取り、共に念仏相続に励んでいきましょう。

合掌十念

 

 

 

 

凡夫(ぼんぶ)の心 わが心

南無阿弥陀仏   圓福寺住職 池 田 常 臣

私達は、誰でもが心に煩悩をもち、いつも貪りの心や怒りの心、そして愚かさの心に振り回されて、ひとときも心を落ち着けることがきません。あれも欲しいこれも欲しいと、足ることを知らずに必要以上に貪る心、足ることを知り程々であればまあ良し、とすればいいのですが、何ぶん頭で解っていてもなかなかその貪りの心が収まらないのあります。また、周囲の人や身の回りの物事に対して、そんなに怒らずともいいと思えることでも、怒りの心や恨みの心が湧き上り鎮まり、また湧き上がっては鎮まりというように、その怒りの炎に翻弄されて、自らコントロールすることができないのです。

さらには、自分は物事の道理ということ位は、ある程度わきまえているから、そんなにばかげた言動や愚かな行いは、いくらなんでもすることはないと思っている。しかし気が付くと、頭ではよーく解っているつもりでいたにもかかわらず、とんでもない言動をしてしまうことがあるものです。そのようにいつでも貪りの心 怒りの心 道理に暗く愚かさの心といった自身ではどうすることもできない煩悩に振り回され、片時も心を落ち着かせ、穏やかな気持ちでいることがなかなか出来ない、この我が身の上なのであります。

そんな具合ですから、長い時間一つのことに心を集中して取り組んだり、何かをなし遂げるということもなかなか叶いません。所謂、煩悩にがんじがらめになっている「凡夫」なのであります。

法然上人はこう申されております。「私達凡夫の心は物を見たり聞いたりするにつけて移ろいやすいのです。たとえて言うならば猿が枝から枝へ渡って動き回っているようなものです。本当に散り乱れて動きやすく、心を鎮め集中することが難しいのです。」と

そんな私達ですから、難しい仏教の学問修業をひたすら打ち込んだり、ましてや自らの力でとことん修業を積み重ねて悟りを得ることなど、とてもとても叶わないのであります。

法然上人はそんな私達の人柄をよく見つめられて、どうしたら凡夫のこの私達をちゃんと修業に向かわせて、その修業が続けられ、そして間違いなく救いとられていく教えはないだろうかと、長い間の学問修業なされ探し求められたのです。そして25年以上に亘る学問修業の末示されたみ教えが、南無阿弥陀仏とお念仏を声に出してお称えするということなのです。

阿弥陀様は、本願を信じ、わが名を称える者は一人残らず必ず救い取るぞーとお誓い下さっています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・と声に出して、お念仏を称えていくだけで、いいのであります。

修業を続けたくても続けることの出来ない、凡夫である至らないわが身でありますが、阿弥陀様がいて下さり、南無阿弥陀仏と阿弥陀様の救いを信じて称え続けたならば、必ず西方極楽浄土に救い取っていただけるのです。こんなわが身であっても、こんなわが身であるからこそ、信じ称えればお救いいただけるのです。

そして、いつでもどこでも、どんな状況であっても、どのような心持の時でも、お称えしていいのです。また、何かの行動している時でも、例えばウォーキングしながらでも、洗濯物干しながらでもいいのですよ。じっとしている時でも、例えば考え事の合間でも、そして椅子や畳や公園のベンチで座っている時でも、車で移動中でも、マッサージチェアでマッサージ受けながらでも、さらには寝る前や起きた時、ソファで一休みの時でもいいのですよ。このようにどのような状況でお称えしてもよいのですから、無理がなく続けることができるのです。

法然上人お示しのお念仏は、このように心が揺れ動き散乱している私達凡夫の為に、いつでも、どんな状況でもおこなえる行であり、阿弥陀様を信じ称えれば必ず救われるのであります。

此の事を正しく受け取り、共に念仏相続に励んで参りましょう。

 

「我が身の程」を知る

南無阿弥陀仏                                                       圓福寺住職 池 田 常 臣

理論物理学者のアインシュタインは、この世に無限のものは、「宇宙と人間の愚かさ」だと言った。物理学の見方から、宇宙が無限であるということは納得できるが、人間の愚かさのまで目を向け、宇宙と同じように無限とは深い洞察である。果たして人間とはいかなるものか、突き詰めると無限の愚かさをもった存在であると言い切るところは、人間の本質をつき詰めた結果であると思われる。

また、現在大リーグヤンキースで活躍するイチロー選手は、かつて6年連続200本安打を打った時の心境を聞かれて、「プレッシャーが重かったけれど、開放されました。いつになっても強い自分にはなれない。弱さしか見えてこない」そのように静かに語ったといいます。傍から見てイチロー選手はとても「弱さ」というものには無縁と思われます。それどころかたいていの人は、強靭な精神力の持ち主でと羨んでしまうくらいではないでしょうか。しかし、毎年記録達成の重圧の中で、自身を見つめ続けた結果弱さしか見えてこないと・・・・素直に話されている。

時代ははるかに異なれども、学問とスポーツの世界でそれぞれの道を追求し名を成した両名から、はからずも出た言葉が「人間の愚かさと弱さ」

これを我が身に置き換えてみるとどうでしょうか。両名のように、人間というものをまたこの「我が身」を深く見つめ、そして素直に受け入れたことがあるだろうか。私共は、ともすれば自分自身の愚かさ弱さには目をそらしがちで、大概認めたがらないものです。

しかし、この愚かさ弱さ、また罪を重ねなければ生きていけない「我が身の程」をよくよく自覚して、「実に至らない身の程であるなー」と受け入れていくことが大切なことであり、そこのところがまず信仰の出発点なるのであります。

そしてこんな愚かで煩悩だらけの私でも阿弥陀様がおっていてくださり、救い導いていただける。阿弥陀様は決してお見捨てにならない。そのように阿弥陀様を信じて、縋り打ち任せていく心持「助け給え」と南無阿弥陀仏のお念仏を称え続けていくことが、愚かで知らず知らずに罪を重ねていくこの私が救われる、唯一絶対の行いなのです。                       合掌十念

「 気 づ き 」 -日々のお念仏からー

南無阿弥陀仏       圓福寺住職 池 田 常 臣

「気づき」―日々のお念仏から―

ある大学教授がしみじみ語った事である。

「私に5歳になる男の子がいる。半年前ぐらいまでは、誰が呼んでも元気良く

‘ハイ,と返事をした。

ところがどうしたことか。このごろ、とんとしなくなったのである。

よく考えてみると、原因が、どうも私自身にあったらしい。仕事に忙殺されて、妻が呼んでも、つい黙って仕事を続けることが、度々あった。

それを見習って子供は、返事をしなくなったようである。

そこで私は「なんとかこれを矯正せねばならぬ」と、色々試みたがさっぱり効果が現れない。『そして最後に気がついた。私自身がまず、誰かから呼ばれたとき、はっきり返事するのが一番と。』

するとどうだろう。いつとはなしに子供は、‘ハイ,と快活に答えるようになったではないか。ふたたびこうして、家の中が明るさを取もどすことができたのである。

「『光に向かって100の花束』・高森顕徹著」

この話しを読んで、まさに我が身を振りかえり、なるほどその通りであるなーと感じたものです。身近な何気ないことを、悪げが無くても、何となくないがしろにしてしまい、思わぬかたちで、その結果が現れてくることってありますよね。

この話のように途中で気がついて、修正できれば良いのですが…・、

そのまま続いてしまい、あとで取り返しのつかないことになってしまうことも十分あり得ます。もしこの男の子の心が閉ざされたまま成長したら、どうなっていったでしょうか。

呼んでも返事をしない、家の中の雰囲気も暗くなっていく、そればかりでなく、ひょとしたら、成人式の最中に、暴言を吐いたり、暴力的な行為に走っていた、なんてことが考えられなくもありません。

昨今色々な局面で問題を起こす若者達…・

突然物事の道理に暗くなった訳ではなく、幼少時からの家庭や家族の身近な影響により、形成されていったのです。親の背中や養育環境の影響、その結果そのものなのです。

他の影響がないとは言いませんが、子供や若者に、「ああせい、こうせい」と只求めるのではなく、その前に、まず自分自身に目を向けてみることが大切ではないでしょうか。

己を見つめ、正すことによって、身近な環境を修正していくという「気づき」が肝心です。そう大げさでなく、まず身近に出来ることからと、考えてみたら如何でしょう。

法然上人は『世間のいとなみひまなければこそ、念仏の行をば修すべけれ』【念仏往生義】とお示しされています。

世間の営みに終われて忙しい毎日だからこそ、お念仏を称えるべきなのです。いつでも、どこでも、誰にでもお称えできるお念仏であるからこそ、あわただしい世間の営みの中でも修めることが出来るのです。と日々のお念仏を勧められておられます。

忙しいからと言って、呼びかけられても返事をしない生活を改め

忙しくとも少しばかりの時間を見つけて、お念仏をお称えさせていただく。

そんなチョトしたことが子供や若者への良い導きとなり、素直な心を育むのです。

「ああ忙しい」ではなく、「なむあみだぶ・なむあみだぶ………・」

そんな環境で育った子供は成人したその時でも、呼びかければ「ハイ」って返事が返ってくることでしょう。

今からでも、まだまだ間に合いますよ…・・きっと    合掌十念

 

お念仏の相続 - 続けることが大切です -

南 無 阿 弥 陀 仏       圓福寺住職 池 田 常 臣

人それぞれ思い思いにウォーキングや散歩をする姿は、最近では日常的な風景です。スポーツウェアに身を包んで一生懸命な人、スマートフォンで音楽を聞きながらの人、または季節の移ろいを感じ、そこここに咲く花を愛でながら歩いている人など、思い思いに楽しんでいるように見受けられます。ウォーキングや散歩を始めた理由も健康増進・美容減量のため、またはストレスの解消のため、さらには歩くことが好きだから等々様々だと思います。

ところが良いとわかっていても、いざ続けるとなるとなかなかむずかしいですね。当の私も週に最低でも1回から2回はと思っていても、思い通りにいきません。何週間か続いたかと思うと、また何週間か空いてしまうということの繰り返しです。

目的は人それぞれでしょうが、続けられるか否かは、その人の意思の強弱にもよりますが、その目的がいかにしっかり定まっているかによるのではないでしょうか。

折角スポーツウェアやシューズを揃えて、いざ始めてみたものの3日間しか続かず、買い求めた道具もお蔵入りなんていうこともありますね。しっかりと目的を定めて励むことが大切であり、そうでないと怠ける原因にもなります。時にはやむを得ず出来ないときもあるでしょうが、続ける力にはなる筈です。

日常生活の中で、何かを目的を持って続けるということは大切なことです。さて、それでは私達にとり継続すべき一番大切なこととはなんでしょうか。そう、それはお念仏の相続ですね。

お弟子の禅勝房という方が法然上人にこう尋ねられました。「毎日称えるお念仏の数が、『お念仏を相続している』と言える程度とは、どの位を見当とするべきでしょうか。」

それに対し法然上人は、「善導大師の解釈によれば、毎日1万遍以上を称えれば相続といえる。このことは『観念法門』というお書物に示されている。また、1回の食事をとる間に、3度ほど思い出して称えるならば、お念仏を相続していることになる。しかしながら人々の能力は一様ではないので、相続といえる程の回数に一定の基準を設けるわけにはいきません。往生を願う志さえ深ければ、お念仏は自然と相続できるようになるのです。」

このようにお示し下さり、本来は毎日1万遍お称えすることが相続ではあるけれども、肝心なことは「お浄土に往生させて頂く」という念仏者としての大目的を心に深く持っていたならば、自然とお念仏は相続できるのですよ、と気持の持ち様の大切さをお示しです。

さらには「何かの支障があって日課念仏を欠かすことがあり、その時「あさましいことだ。お念仏を称えなかった」と思うようであれば、それは既にお念仏を心がけていることになる。とにもかくにもお念仏を忘れることがなければ、それで相続していることになる。」と有り難くもお示しであります。

大切なことは、「どうぞお浄土へお迎えください」と往生を願う気持をしっかり持ち続けることです。そうしたならば「称えずにはおれない」そんな気持が湧き上がり、命終の時迄お念仏を自然と相続できるのです。

ウォーキングや散歩を無理なく続けたならば、健康という大切なものが得られます。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とお念仏のお称えを相続したならば、心身の安穏が自ずから得られ大目的の極楽浄土への往生が間違いなく約束されるのです。     合掌十念

いつでもどこでも 声に出して南無阿弥陀仏

南 無 阿 弥 陀 仏      圓福寺住職 池 田 常 臣

読売新聞に掲載された、ある中学生の【伝えたい言葉】という詩があります。

たった一言が言えなくて 「ありがとう」が どうしても言えなくて

たった一言なのに言えなくて いつも先送りしている言葉 さりげない優しさに向かって

「ありがとう」が言えなくて 大事な気持ちなのに言えなくて

今 一番伝えたい言葉 いつも笑顔を向けてくれるのに

「ありがとう」が言えなくて ごめん  自分に勇気がもてたらいつか

必ず言おうと思った言葉 心からの「ありがとう」

私たちは、日々の生活の中で、色々な人とのやり取りや関わりがありますが、人に言葉を伝える時、果たして、どのくらい素直に自分の気持ちを表して、心からの言葉を、発しているでしょうか・・・

何か頼む時の「お願いします」、感謝の気持ちをあらわす「ありがとう」や、あやまる時の「すいません」・・・口先だけなら言えるかもしれないけれど、相手を目の前にした時、自分の心の中に本当にその気持ちが無いと、心からの言葉は、言えないものであります。日々の生活の中で、冷静に振り返ってみると、意外と少ないのかも知れないですね。

色々な場面において、相手に素直に自分の気持ちを伝えることは、大切なことでありますが、その場合まずもって、こちらからしっかり「伝えよう・伝えよう」と、心を込めることが大事であります。また、そうしなければ、相手に伝わりません。

そんな私たちが毎日の信仰という生活の中で、素直に自分の気持ちを、お伝えさせていただく、そのお方はどなたでありましょう・・  そう・・それは阿弥陀様ですね。

そして、心を込めてお伝えする、大切なお言葉は、そう・・・それは「南無阿弥陀仏」ですね。毎日阿弥陀様に対して、「お助けください・どうぞ宜しくお願いします」と心を込めて、信じ任せて南無阿弥陀仏と声に出してお称えすることであります。

それでは「南無阿弥陀仏」とお称えする時や処は、どのようにしたらよいのでしょうか・・・ 法然上人は、「いつでもどこでも 行住坐臥 時処諸縁をきらわず」 とお示しであります。行くも止まるも座るも臥すも 動いている時も、じっとしている時も、座っている時も、寝ている時も、いつでもよいのですよ。

そして、時やところを選ばず、また楽しい時も、悲しい時も、つらい時も、いずれの心持の場合でもよいのですよと、有り難くお示し頂いております。

いつでもどこでも、「お助け下さい・どうぞ宜しくお願いします」と心を込めて信じ任せて南無阿弥陀仏と、声に出してお称え申し上げるのであります。

『ただ頼め 頼む心があるならば 南無阿弥陀仏を 声に出だせよ』

『ただ頼め 頼む心があるならば 南無阿弥陀仏を 声に出だせよ』

頼む心があるならば、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 と声に出してお称えさせて頂く、そこが大切なのであります。いつでも、どこでも、どんな時でも、阿弥陀様の本願を信じ、声にしっかり出してお称えするのです。南無阿弥陀仏のお名号には、それこそ沢山の計り知れない功徳が、込められているのです。

称え始めたその時から、阿弥陀様はしっかりとお守り下さり、この現世では、・・・まさに今生きている時には、心安らかに過ごさせて頂け、命の縁が尽きた時には、必ずお迎え下さり、西方極楽浄土へとお救い頂ける。そしてお浄土では、御先祖様にお出会いさせて頂き、阿弥陀様にしっかりと守られながら、悟りに向けて仏様にまでお育て頂けるのであります。それだけ全てのことが、「南無阿弥陀仏」の6文字の名号に含まれているのです。

お一人お一人が、今以上に阿弥陀様の本願を信じて、南無阿弥陀仏と声に出して、お称えを続けていかれることを念願申し上げます。

『ただ頼め 頼む心があるならば 南無阿弥陀仏を 声に出だせよ』であります。

合掌十念