少欲知足

 南  無  阿  弥  陀 

                      圓福寺住職 池

浄土三部経のひとつに『無量寿経』というお経があり、その中に「少欲知足」という言葉が出てまいります。少しの欲で足ることを知る、ということをお示しいただいている言葉であります。 よくよく頭ではわかっているし、そう心がけようと思ってもなかなか実行したり、続けたりすることが難しいのが、この「少欲知足」ということですね。

「物事の 一つ叶えば また二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や」

あれもほしい、これも欲しいという心が、止め処もなく湧き起こってきて、あとこれさえ手に入ればと思っても、実際それが手に入ってしまうと、また後から別の欲の心が湧き起ってきて、いつまで経っても満たされることが無いのが、欲の心であります。

「裸にて 生まれてきたに 何不足」

人は元々裸で生まれてきて、何も持っていなかったのですが、成長するに従って、欲の心がどんどんと頭をもたげてくる。もちろん人間には、食欲、睡眠欲、子孫を残したいという欲、物事に取り組もうとする意欲、などがあり、生きていく為には必要な欲であります。しかし、ただ自分の欲求を満たす為だけに、欲を追求してはなりませんね。それに自分の求める欲を、決して何から何まで、全て満たすことは出来ないのであります。

それ故に、欲を求めるさじ加減を間違えると、そのことが返って悩み・苦しみを生みだすのです。そしていつでも悩み・苦しみを抱えた状態に陥り、たえず不満をつのらせ、ああ、自分は何と不幸せなのだろうと、感じてしまうのです。そうした状態に陥らない為にも、「少欲知足」という、「足るを知る」ことがとても大切なことなのです。程々というところで、「いい塩梅」と思うことも必要なことであります。

「身・命・財」という言葉があります。

身とは、身体の身 健康な体であるということ。命(みょう)とは命 長生きできるということ。財とは 財産です。

それでは仮に「身と命と財」、健康な体・長生きすること・財産が全部揃えば幸せを感じることが出来るでしょうか・・・・「身・命・財」揃ったとしても、本当に心から幸せを感じ・日々安寧に暮らすことが出来るかというと、そうとも言えないですよね。

それでは、私たちは、この心がどのような状態なら、幸せを感じられるのでしょうか・・・生きていると良い時もあれば、芳しくない時もある。この心も浮かんだり沈んだり、結局いずれの時も悩みがつきることなく、心安らかに過ごしたいと願っても、なかなかそうはいかないものですね。この我が身には、決して無くすことのできない、貪り・腹立ち・愚かさの心が有り、どうにかしたいと思っても、自分の力ではどうすることとも出来ない。そればかりか、この心が原因で色々と悪さをして、悩みを生み出している。

また、私達の持つ体力・財産・心などの自分自身の力や、また自分を取り巻く周囲の力・・・家の力・金の力・親子夫婦・兄弟孫子などの親族の力、それぞれは、大切なものですが、こんな私達を救って真実の生活に導いてくれるものではなく、そうなると「この私がいかに無力」であり、頼りとするものを持ちえていないか、ということが良く判ってくるのです。

そんな私たちだからこそ、心安らかに過ごせ、心の中に頼りとする信仰という「仰ぎ信じる」ものが必要となってくるのであります。これだとお任せできるもの、心から信頼して、お願いできるものを持つことが大切です。信仰というものをしっかり持っていれば、以前のように何かあっても、その場その場でうろたえることなく、地に足をつけて歩んでいくことができるのです。

その仰ぎ信じるものこそが、南無阿弥陀仏のお念仏ですね。阿弥陀様の本願を仰ぎ信じて、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とお称えいただくことであります。

そうすれば、心の中に頼りとする、確固たるものが芽生えて、悩みにあれこれ振り回されず、安らかに過ごさせていただけるのであります。

合掌十念

 

大切に受け継いでいくこと

南無阿弥陀仏

圓福寺住職 池 田 常 臣

石見銀山が世界遺産に登録された理由の一つが、環境保全にあるという。当時の石見銀山運営は、木を伐採した後には必ず植林をして、決して禿山にしない。だから今でも、当時のまま環境が保たれているのです。

数年前に浄土宗三祖良忠上人の誕生された地、石見三隅の良忠寺を訪ね、その日は石見銀山から程近い港町の、温泉津(ゆのつ)温泉に泊まった。

翌朝温泉街を、浴衣に下駄履きでのんびり散策していると、「いってきます」と大きな声で小学生が自宅を飛び出してきた。
その子供が、後ろから私を追い抜きざまに、「おはようございます」といって、走り抜けていった。
どうやら、私に挨拶したようであった。
暫く歩いていると今度は、玄関の前にいた別の小学生が「おはようございます」と、突然私に声を掛けてきた。暫く間を置いてから「おはよう」と声を返した。いきな
り元気よく声を掛けられ、しばし戸惑ってしまった自分を顧み、知らない者同志でも挨拶しあうことは当たり前なのに、思い返せば昨今こういう当たり前の挨拶が、少なくなったものだなあと感じたのである。

この地方はもともと、お念仏の信仰の厚い地であり、浅原才市という篤信の念仏信者が出ている。
「ねんぶつを もうすというけれど もうさせていただく なむあみだぶつ」
彼の歌であり、「もうさせていただく」というところに深い念仏信仰を感じることができる。

この地方が、従来からお念仏の信仰が篤く、地域の人々が環境を大切に守ってきた背景があればこそ、それが脈々と受け継がれ、今も息づいている。
そして、小学生の子供でも、初めて会った旅行者に「おはようございます」と自然に言わしめるのだと思うのです。
このように地域に根付き、受け継がれてきた信仰心や生活習慣というものは、是非大切に受け継いでいきたいものである。

南無阿弥陀仏のお念仏の信仰と、日々生活の中での挨拶、そして環境に配慮する心こそ、私たちがしっかり受け継いでいかなければならないものであり、そのことが残されている地域にある石見銀山こそ、紛れもなく世界遺産にふさわしいものであると思うのです。

合掌十念