往生するぞと思い定めて称える念仏

南無阿弥陀仏

法然上人が比叡山で学ばれた当時の仏教は、自身の力で学問修業を重ね悟りに至らんとする教えであり、誰でもがた易く学問修業を完遂して悟りに至ることなど、とても叶わない修行でありました。
当時文字を読める人もごく僅かに限られ、ましてや仏教の教えそのものに触れることさえも、市井の民衆には難しいことでした。
法然上人が何としてもと目指したところは、文字が読めようと読めまいと、学識が有ろうと無かろうと、裕福であろうとそうでなかろうと、置かれた環境や本人の資質に関わりなく、現世の縁が尽きたならば誰でもが平等に救われていく教えと行いであったのです。

そうして比叡山黒谷において二十五年にも及ぶ艱難辛苦の学問修行の末に、ようやく八万四千の法門より見い出された教えが、専修念仏であったのです。
阿弥陀様の「必ず救いとる」との本願を信じて声に出してお称えする称名念仏一行。老若男女貴賤など関係なく、何としても救われていきたい「助け給え」その思い定め一つで、間違いなく極楽浄土に救い取られていく、日本の仏教史上画期的な万人平等救済のみ教えを見い出されたのです。

「念仏はようなきをようとす。ただつねに念仏すれば、臨終には必ず仏きたりてむかえて、極楽にはまいるなり」であります。

お念仏はいかなる形式も必要としません。行住坐臥・時処諸縁を問わず、動いていてもじっとしていても、座っていても、臥せっていても、また朝、昼、夜でも、いかなる場所でも、喜怒哀楽どのよう心持であっても問題としないのです。

「一枚起請文」にも「疑いなく往生するぞと思い取りて申す他には別の仔細候わず」と、間違いなく往生するのだと思い定めてお称えする他には、何も特別にこまごまとした条件などありませんと、しかとお示し頂いています。
法然上人が浄土宗を開かれた真意は、あらゆる立場階層の人々が易しい行いで救われていく、万人平等救済の思いに尽きるのです。

合掌

善悪の判断し難き我が身

「善悪の判断し難き我が身」 

自分自身にとり、物事の良し悪しを判断することはそれ程難しいことのようには思われません。何故なら自分には良識・常識が備わり、それ程間違った判断をすることは無い、ある程度の判断は出来ると思っているからです。

ところが、貪りや怒りの心、物事の道理に暗い愚かさの心という煩悩を持つこの我が身でありますから、その煩悩が善悪の正しい判断を知らず知らずの内に狂わせてしまうのです。後で振り返り、何故あの時あのような判断をしてしまったのか、そんな自分が信じられない。その時は冷静に判断したつもりでも、後々後悔する時があるものです。誰しも大なり小なり経験があることかと思います。

私達の判断基準は、好き嫌いの感情が働きまた自分の都合の善い方に自然と肩入れしてしまうことがあり、正しく判断したつもりでも、気づかぬうちに煩悩の仕業が働いて、正しい判断を狂わせてしまうのです。

法然上人は「この私たちの心の動きは酒に酔っているようであったり、また一瞬のうちに百通りものことが一気に浮かんできてしまい、善悪の判断が狂ってしまうのですよ」とお示しの通りの、私達であります。さらに「そのような煩悩だらけの私達ですから、とても自分だけの力で、この世の中において仏道修行を完成させることなど出来ないのですよ」ともお示しです。

このように自身の判断もままならず、自分の力で仏道修行を成し遂げることの出来ない煩悩だらけの身の上であるからこそ、阿弥陀様の必ずお救い下さるというお誓いを信じて、お念仏のお称えを続けていくことが何より大切となります。合掌

阿弥陀様にすべてお任せ

南無阿弥陀仏

俺が俺がの「が」、私こそ私こその「こそ」この「が」と「こそ」を捨てて、お蔭、お蔭の「げ」で暮らしていくことが大切です。決して、自分一人だけの力で生きてきたのではない、自分一人の力などたかが知れたもの、勘違いしてはなりませんね。

生まれてこの方、様々な人に出会い、助けられ、教えを請い成長してきました。こんなに大きく丈夫な体にお育て頂けたのも、乳を与えてくれた母や愛情を注いでくれた両親そして親族のお蔭です。口に入る食べ物は、全て生きとし生ける命ですが、沢山の方々が一生懸命作ってくれ、それを運んでくれ、調理してくれてというように、自分の口に入る迄にはどれ程の人達の努力と愛情がそこにはあるのでしょうか。日頃忘れがちになってしまい、私自身も振り返ると反省しなければならないことばかりです。

色々なお力に支えられ生かされているのです。このことを、お念仏の信仰というところから見ていくと、どうでしょうか。法然上人にある方が「お念仏を称えている人は、みな往生することが叶うのでしょうか?」とお尋ねされました。すると法然上人は「阿弥陀様の本願のお力にすがり心から信じてお念仏をお称えしている人は、間違いなく往生します。しかしながら阿弥陀様の本願を信じようとせず、頼りとせずに、自分の力だけで往生を叶えようとしたならば、往生しません」そのように、ハッキリとお答えになりました。

よく考えてみて下さい。日々の生活の中で私達にどれ程の力があるでしょうか。ましてや自分だけの力で極楽浄土への往生を叶えようとすることは、到底無理であります。それ故自力、自分の力ではなく、他力、他の力、そうです、阿弥陀様の本願のお力にすべてお任せして、南無阿弥陀仏と称えて、往生を間違いなく叶えていくことが、何よりも大切なことなのです。そのことを正しく受け取り、お念仏のお称えを続けて参りましょう。

合掌十念

阿弥陀様は今現にいてくださる

「阿弥陀様は今現にいてくださる」

 南無阿弥陀仏

 現代は世界中の風景や絶景がインターネットやテレビなどを通じて、その場に実際に行かずとも見て楽しむことが出来ます。上空から写されたヒマラヤの山々は実に雄大で神々しさを感じさせてくれます。また、ナイヤガラの滝や南米のイグアスの滝を上空から滝つぼを写した迫力ある映像などを見ると、画面の前にいる自分が引き込まれたり、足がすくむような感覚に陥ります。まさに世界中の距離が縮まった感があります。

 誰しも自分の目で見たもの、感じたものは本当にあるのだなーと信じますが、如何でしょうか・・、まだ誰も見たことの無い物や場所、有るであろうと推測で語られた物事については、なかなかすぐには信じることができないものです。西方極楽浄土って本当にあるの?そこには本当に阿弥陀様がいて下さるの?未だかつて誰も見てきた人はいないじゃない。極楽浄土は、遥か西の彼方にあるっていうけれど、地球は丸いから西へ西へ行ったならば、又元のところへ戻って来るだけじゃないの。などとやたら屁理屈を付けて信じようとしないことなどもありますね。

 『阿弥陀経』の中に、「阿弥陀様は間違いなく極楽浄土においでになり、尊いみ教えをお聞かせ下さり、往生した全ての人を守りお育て下さっています」と説かれています。私達はまずお経典に説かれたそのことを信じていくのであります。そして、間違いなく阿弥陀様はおいでになるのだから、阿弥陀様の誓われた「我が名を南無阿弥陀仏と称える者は、必ず我が極楽浄土に救い取る」という本願は、絶対に間違いの無いお誓いと信じ、お念仏を声に出してお称え続けていくことが大切なのであります。

 信仰とは、お釈迦様のお説き下された真理のお言葉、お経典の内容を有難く頂き、西方極楽浄土は間違いなくあり、そこには御先祖様方がおいでになり、阿弥陀様が守り育てて下さっているということを、決して疑うこと無く、ひとえに素直に信じていくことなのです。そのようにお念仏をお称え続けたならば、西方極楽浄土に往生という大きな願いは間違いなく叶うのであります。合掌十念

「お念仏は阿弥陀様のお誓い」

南無阿弥陀仏  「お念仏は阿弥陀様のお誓い」

 高い山に登る時には、幾つかのルートがあります。険しい山道を登る上級者向けのコースもあれば、時間はかかるけれどもなだらかで登り易いコースもあります。またはへリコプターに乗って頂上付近まで一気に到達するなどということも出来ますね。しかしどうでしょうか、険しい山道を登って行くことには危険が伴い、100パーセント安全だとはいえません。なだらかな山道は、安全だけれど時間がかかり、ややもすると山小屋に一泊してということになりかねません。また、ヘリコプターで登るには、まず費用が掛かるのと、天候に左右されます。風が強い時や視界が悪い時などは飛べませんね。いずれも一長一短がありますね。

 仏教の修行においても、それこそ幾通りもの様々な修行の形態があります。難行苦行といわれる、滝に打たれる修行、長時間座禅をして瞑想する修行、飲食物を取らず、眠らず横にならず続ける修行など、とてもとても誰にでも続けて行い、成果を上げることなど叶いません。難行苦行を勤めることが叶わないこの私達が、往生極楽という願いを叶える為に一番勝れて間違いのない行いは、南無阿弥陀仏とお念仏を称えること以外には無いのであります。

 阿弥陀様は、我が名を南無阿弥陀仏と称える者は一人も漏らすことなく、私の極楽浄土に救い取る、往生を遂げさせるとお誓いを下さっています。何とも有難いことですね。そのお誓いを本願と申します。この阿弥陀様のお誓いである本願を信じて、南無阿弥陀仏と声に出してお念仏を称え続けていく、それだけで良いのであります。尊い沢山の仏様がおられます。また仏道修行もそれぞれに貴い行いであります。しかし極楽往生という大きな目的を達成するためには、阿弥陀様の本願というお誓いを信じて、その道一筋に称え進んでいく。それだけで良いのであります。このことを正しく受取りお念仏のお称えを続けて参りましょう。合掌十念

お称えの相続

 人それぞれ思い思いにウォーキングをする姿は、最近では日常的な風景です。スポーツウェアに身を包んで一生懸命な人、ヘッドホンを耳に当て音楽を聞きながらの人、または季節の移ろいを感じ、そこここに咲く花を愛でながら歩いている人など、思い思いに楽しんでいるように見受けられます。ウォーキングを始めた理由も健康増進・美容減量のため、またはストレスの解消のため、さらには歩くことが好きだから等々様々だと思います。

ところが良いとわかっていても、いざ続けるとなるとなかなかむずかしいですね。当の私も週に最低でも1回から2回はと思っていても、思い通りにいきません。何週間か続いたかと思うと、また何週間か空いてしまうということの繰り返しです。

目的は人それぞれでしょうが、続けられるか否かは、その人の意思の強弱にもよりますが、その目的がいかにしっかり定まっているかによるのではないでしょうか。 

折角スポーツウェアやシューズを揃えて、いざ始めてみたものの3日間しか続かず、買い求めた道具もお蔵入りなんていうこともありますね。しっかりと目的を定めて励むことが大切であり、そうでないと怠ける原因にもなります。時にはやむを得ず出来ないときもあるでしょうが、続ける力にはなる筈です。

日常生活の中で、何かを目的を持って続けるということは大切なことです。さて、それでは私達にとり継続すべき一番大切なこととはなんでしょうか。そう、それはお念仏の相続ですね。

お弟子の禅勝房という方が法然上人にこう尋ねられました。「毎日称えるお念仏の数が、『お念仏を相続している』と言える程度とは、どの位を見当とするべきでしょうか。」

それに対し法然上人は、「善導大師の解釈によれば、毎日1万遍以上を称えれば相続といえる。このことは『観念法門』というお書物に示されている。また、1回の食事をとる間に、3度ほど思い出して称えるならば、お念仏を相続していることになる。しかしながら人々の能力は一様ではないので、相続といえる程の回数に一定の基準を設けるわけにはいきません。往生を願う志さえ深ければ、お念仏は自然と相続できるようになるのです。」 

このようにお示し下さり、本来は毎日1万遍お称えすることが相続ではあるけれども、肝心なことは「お浄土に往生させて頂く」という念仏者としての大目的を心に深く持っていたならば、自然とお念仏は相続できるのですよ、と心の置き方の大切さをお示しです。

さらには「何かの支障があって日課念仏を欠かすことがあり、その時「あさましいことだ。お念仏を称えなかった」と思うようであれば、それは既にお念仏を心がけていることになる。とにもかくにもお念仏を忘れることがなければ、それで相続していることになる。」と有り難くもお示しであります。

大切なことは、「どうぞお浄土へお迎えください、助け給え」と往生を願う気持をしっかり持ち続けることです。そうしたならば「称えずにはおれない」そんな気持が湧き上がり、命終の時迄お念仏を自然と相続できるのです。

ウォーキングを無理なく続けたならば、健康という大切なものが得られます。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とお念仏のお称えを相続したならば、心身の安穏が自づから得られ大目的の往生が約束されるのです。                    合掌十念

我が身の無常をおもう

南無阿弥陀仏

 私は22歳の夏に、交通事故に遭いました。対向車が中央分離帯を飛び越えて、私の車に飛び込んできたのです。こちらは1300ccの小さな車、相手は2000ccの大きな車でしたから、ひとたまりもありません。気がついた時は病院のベッドの上。一晩中付き添ってくれた母に、何故私は、今この病院のベッドの上にいるの?という問いかけを、一晩中繰り返していたとのことでした。興奮状態にあったのだと思います。重いムチ打ち症になり、入院とリハビリで1か月間仕事を休みました。これに似たような体験をされた方もおいでかと思います。

 まさか、我が身にこのようなことが突然降りかかるとは、思ってもみませんでした。まさに日常生活は死と隣り合わせであり、何が起こるかわかりません。22歳の時に初めて実感しました。この身がいつ何時、どうなるか判らない無常の身であるということを、自分の身に起こって、初めて我が事として捉えることができるのです。無常ということを他人事として捉えているうちは、我が事としてなかなか捉えられないものなのです。どなたの身にいつ何時起こってもおかしくないのであります。

 法然上人の時代は、戦乱が続き、地震などの天災地変も多く、疫病も流行り、食べる物も乏しく、人々は明日をも知れぬ状況であったのです。この明日をも知れない命ということにおいては、今の時代であっても何ら変わりがありません。南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせて頂いているこの私達の心掛けとして、折にふれて、まさに我が身は無常の身であるなーということを我が事として受け止めながら、お念仏のお称えを毎日続けて参りましょう。        合掌十念

人として生まれた有難さ

「人として生まれた有難さ」

南無阿弥陀仏     圓福寺住職 池 田 常 臣

人としてこの世に生を受けることは、有難いこと、有ることが難しいことなのです。

 そんなことよくよく考えたことなど無いよ、という方もおいでかと思います。今元気でバリバリと働いている方、目標に向かって一生懸命に頑張っている方にとっては、人として生まれることは難しいことだ、そのように思う機会が少ないかもしれませんね。また、定年を迎えようとしている方や、定年後の人生をそれぞれに歩まれている方にとっては、これからの人生設計のことが大切であって、「人として生まれさせて頂いたこと」が、どうのこうのということではないよ、と言われるかもしれません。

 しかし、よくよく考えてみて下さい。様々な良い縁がいくつも重なり合って、ようやくこの人の世、人間界に生まれさせて頂いたのであります。法然上人も「人の世に生まれることは、はるか天上の世界から、糸をすーと垂らして、その糸が、海の底に沈んでいる針の穴を通すが如く、有り得無い位難しいことなのですよ」と、お示しされ、それだけ人として生まれさせて頂くことは、難しいことだと譬えられているのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせて頂いているこの私達の心がけとして、折にふれて、人として生まれさせて頂いたことは、実に有難いことなのだなー、あたり前のことではないのだなーと、我が身に照らし味わいながら、お念仏のお称えを毎日続けて参りましょう。

合掌十念

 

ただ 頼む心

南 無 阿 弥 陀 仏                      圓 福 寺  池 田 常  臣

読売新聞に掲載された、ある中学生の【伝えたい言葉】という詩があります。 

たった一言が言えなくて「ありがとう」が どうしても言えなくて

たった一言なのに言えなくて いつも先送りしている言葉 さりげない優しさに向かって

「ありがとう」が言えなくて 大事な気持ちなのに言えなくて

今 一番伝えたい言葉 いつも笑顔を向けてくれるのに

「ありがとう」が言えなくて ごめん 自分に勇気がもてたら

いつか必ず言おうと思った言葉 心からの「ありがとう」 

 私たちは、日々の生活の中で、色々な人とのやり取りや関わりがありますが、人に言葉を伝える時、果たして、どのくらい素直に自分の気持ちを込めて、心から言葉を、発しているでしょうか・・・

 何か頼む時の「お願いします」、感謝の気持ちをあらわす「ありがとう」や、あやまる時の「すいません」・・・口先だけなら言えるかもしれないけれど、相手を目の前にした時、自分の心の中に本当にその気持ちが無いと、心のこもった言葉は、言えないものです。

日々の生活を冷静に振り返ると、意外と少ないのかも知れませんね。

 色々な場面で、相手に素直に自分の気持ちを伝えることは、大切なことですが、その場合まずもって、こちらからしっかり「伝えよう・伝えよう」と、心を込めることが大事であります。また、そうしなければ、相手に伝わりません。 

 そんな私たちが毎日の信仰という生活の中で、心のこもった自分の気持ちを、お伝え致す、そのお方はどなたでありましょう・・ そう・・それは阿弥陀様ですね。

 そしてお伝えする、大切なお言葉は、それは「南無阿弥陀仏」ですね。毎日阿弥陀様に対して、「お助けください・どうぞ宜しくお願いします」と心を込めて、心を乗せて、南無阿弥陀仏と声に出してお称えすることであります。

それでは「南無阿弥陀仏」とお称えする時や処は、どのようにしたらよいのでしょうか・・・

法然上人は、「いつでもどこでも 行住坐臥 時処諸縁をきらわず」 とお示しであります。

 行くも、止まるも、座るも、臥すも 動いている時も、じっとしている時も、座っている時も、寝ている時も、いつでもよいのですよ。そして、時やところを選ばず、また楽しい時も、悲しい時も、つらい時も、いずれの心持の状況でもよいのですよと、有り難くお示し頂いております。

 いつでもどこでも、「お助け下さい・どうぞ宜しくお願いします」と心を込めて南無阿弥陀仏と、お伝え申し上げるのであります。 

『ただ頼め 頼む心があるならば 南無阿弥陀仏を 声に出だせよ』 

 頼む心があるならば、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 と声に出してお称えさせて頂く、そこが大切なのであります。いつでも、どこでも、どんな時でも、阿弥陀様の本願を信じ、声にしっかり出してお称えするのです。 

 南無阿弥陀仏のお名号には、それこそ沢山の計り知れない功徳が、込められているのです。称え始めたその時から、阿弥陀様はしっかりとお守り下さり、この現世では、・・・まさに今生きている時には、お慈悲の光明に照らされ、心やすらかに過ごさせて頂け、人間世界の縁が尽きた時には、必ずお迎え下さり、西方極楽浄土へとお救い頂ける。

 そしてお浄土では、御先祖様にお出会いさせて頂き、阿弥陀様にしっかりと守られながら、悟りに向けて仏様にまで、お育て頂けるのであります。それだけ全てのことが、「南無阿弥陀仏」の六文字の中に含まれているのです。 

 お一人お一人が今以上に阿弥陀様の本願を信じて、南無阿弥陀仏と声に出して、お称えを続けていかれることを念願申し上げます。                             合掌十念

死の縁は無量 常日頃のお念仏が大切

南無阿弥陀仏   圓福寺 池田常臣

念仏者の大きな目標は、西方極楽浄土に往生させていただくことであります。

お念仏を、声に出してお称えすることを相続することにより、間違いなく極楽往生が叶うのであります。特別難しいことをするわけでありません。阿弥陀様のお救いを信じて、南無阿弥陀仏のお念仏を声に出してお称え続ける、それだけで良いのであります。

私達は、元気でいられること、生きることを前提にして毎日を過ごしていますが、そうではないのですね。むしろ死ぬことを前提にして、そのことを心に思い、お念仏を称えながら、日々有り難い思いで、過ごさねばならないのだと思います。生きることを前提でなく、死ぬことを前提にするということですね。

法然上人は、人がいつどのような形で死を迎えるかわからないことを「死の縁は無量」と捉えられています。

「人がどういう縁で死ぬかは、かねて思っていたようにはならないようだ。大通りで死ぬこともあるし、便所で死ぬ人もある。太刀や刀で命を失い、火に焼け、水におぼれて命をなくす例も多い。そのような形で亡くなろうとも、日頃念仏を申して、極楽へ参る心でいる人ならば、息の絶える時に弥陀・観音・勢至がやってきて迎えてくれる。そう信じてお念仏を称えなさい。」

このように、「死の縁は無量である」ということについて、自分がかねてから、このような形で最期を迎えられたらいいなと思っていても、思い通りにはそうそうならないものですよ。道路を歩いている時やトイレで死ぬ時もある。また戦乱や火災に巻き込まれたり、水におぼれたりというような自然災害に遭うこともある。

いつどのような形で死を迎えるかもしれないが、常日頃お念仏を称えていれば、必ず阿弥陀様 観音・勢至菩薩様のお迎えをいただけるのです。そう信じてお念仏をお称えしなさい」とのお示しであります。いつ如何なる時に、どうなるかわからないこの命であるからこそ、いつも南無阿弥陀仏とお称えしていることが、実に大切なことなのです。

常日頃お念仏を称えていれば、いつこの身に無常の風が吹いても救われる。

「だからこそ、常日頃の念仏、平生の念仏が大切であり、念仏を続けることが肝要なのです。」そのように、法然上人は受け取られて、お示しなされておられます。 

万が一、この我が身の上に、突然無常の風が吹いたとしても、心配ないのです。常日頃お称えしていたお念仏により、間違いなく阿弥陀様がお迎えに来て下さいます。さらには、最後臨終の間際、阿弥陀様がお迎えに来て下さるその御姿を、目の当たりにご覧になったならば、現世に対する執着の心や迷いの心、死後の不安の心などから解放させていただけます。そして、落ち着いた、心が乱れない状態(正念)にさせていただき、極楽浄土へ救い取っていただけるのです。 

最後臨終の夕べ、心の乱れない状態にさせていただき、阿弥陀様のお迎えを頂ける。ここがお念仏を相続することの有り難さであります。恐れや不安にさいなまれることなく、極楽往生が必ず叶うのであります。 

私達の人生の目標、帰趨、落ち着き先は、西方極楽浄土であります。ここに菩薩となって往き生まれることが往生であり、ここにまします阿弥陀様から御説法をいただいて、晴れて仏様にお育ていただくこと、これが成仏するということなのです。 

そして仏となった暁には、この娑婆の世に生きる人々が、迷いの人生のままおわらないようにと、お念仏の教えに導き、極楽浄土に参って頂くよう導いてあげるのです。これが念仏を称え、仏道を歩む私達の最終目標であります。 

私達は、この極楽往生という目標に向かい、阿弥陀様のお浄土に生まれたい、どうか御助けくださいとの心持ちで、お念仏をお称えしたいものです。 

此の事を正しく受け取り、共に念仏相続に励んでいきましょう。 合掌十念