南無阿弥陀仏 圓福寺 池田常臣
念仏者の大きな目標は、西方極楽浄土に往生させていただくことであります。
お念仏を、声に出してお称えすることを相続することにより、間違いなく極楽往生が叶うのであります。特別難しいことをするわけでありません。阿弥陀様のお救いを信じて、南無阿弥陀仏のお念仏を声に出してお称え続ける、それだけで良いのであります。
私達は、元気でいられること、生きることを前提にして毎日を過ごしていますが、そうではないのですね。むしろ死ぬことを前提にして、そのことを心に思い、お念仏を称えながら、日々有り難い思いで、過ごさねばならないのだと思います。生きることを前提でなく、死ぬことを前提にするということですね。
法然上人は、人がいつどのような形で死を迎えるかわからないことを「死の縁は無量」と捉えられています。
「人がどういう縁で死ぬかは、かねて思っていたようにはならないようだ。大通りで死ぬこともあるし、便所で死ぬ人もある。太刀や刀で命を失い、火に焼け、水におぼれて命をなくす例も多い。そのような形で亡くなろうとも、日頃念仏を申して、極楽へ参る心でいる人ならば、息の絶える時に弥陀・観音・勢至がやってきて迎えてくれる。そう信じてお念仏を称えなさい。」
このように、「死の縁は無量である」ということについて、自分がかねてから、このような形で最期を迎えられたらいいなと思っていても、思い通りにはそうそうならないものですよ。道路を歩いている時やトイレで死ぬ時もある。また戦乱や火災に巻き込まれたり、水におぼれたりというような自然災害に遭うこともある。
いつどのような形で死を迎えるかもしれないが、常日頃お念仏を称えていれば、必ず阿弥陀様 観音・勢至菩薩様のお迎えをいただけるのです。そう信じてお念仏をお称えしなさい」とのお示しであります。いつ如何なる時に、どうなるかわからないこの命であるからこそ、いつも南無阿弥陀仏とお称えしていることが、実に大切なことなのです。
常日頃お念仏を称えていれば、いつこの身に無常の風が吹いても救われる。
「だからこそ、常日頃の念仏、平生の念仏が大切であり、念仏を続けることが肝要なのです。」そのように、法然上人は受け取られて、お示しなされておられます。
万が一、この我が身の上に、突然無常の風が吹いたとしても、心配ないのです。常日頃お称えしていたお念仏により、間違いなく阿弥陀様がお迎えに来て下さいます。さらには、最後臨終の間際、阿弥陀様がお迎えに来て下さるその御姿を、目の当たりにご覧になったならば、現世に対する執着の心や迷いの心、死後の不安の心などから解放させていただけます。そして、落ち着いた、心が乱れない状態(正念)にさせていただき、極楽浄土へ救い取っていただけるのです。
最後臨終の夕べ、心の乱れない状態にさせていただき、阿弥陀様のお迎えを頂ける。ここがお念仏を相続することの有り難さであります。恐れや不安にさいなまれることなく、極楽往生が必ず叶うのであります。
私達の人生の目標、帰趨、落ち着き先は、西方極楽浄土であります。ここに菩薩となって往き生まれることが往生であり、ここにまします阿弥陀様から御説法をいただいて、晴れて仏様にお育ていただくこと、これが成仏するということなのです。
そして仏となった暁には、この娑婆の世に生きる人々が、迷いの人生のままおわらないようにと、お念仏の教えに導き、極楽浄土に参って頂くよう導いてあげるのです。これが念仏を称え、仏道を歩む私達の最終目標であります。
私達は、この極楽往生という目標に向かい、阿弥陀様のお浄土に生まれたい、どうか御助けくださいとの心持ちで、お念仏をお称えしたいものです。
此の事を正しく受け取り、共に念仏相続に励んでいきましょう。 合掌十念