南無阿弥陀仏
圓福寺住職 池 田 常 臣
ある自然科学者が、人は死ぬと火葬して酸素と二酸化炭素に分解して、後には灰が残るだけと、常日頃から言っていたんですね。自然科学者としての自信からでしょうか・・・死んだらもうそれでお終いと、常々豪語していたのです。だから、当然宗教・信仰というものは、持ち合わせてはいないのでありましょう。
この自然科学者が、ある時突然、小学生の愛娘を亡くされたのです。人は死んだらそれで終わりだと、常々言っていた、それこそ無宗教の人ですから、愛娘の死ということも、割り切って考えられたことでしょう。日頃の言動からして、それが当然でありました。ところが、それがどうしたことか、この愛娘の死をきっかけにして、月命日のたびに、娘の好きだったケーキを持って、お墓参りに足繁く通いだしたというのです。
これって一体、どういうことなのでしょうか。
いざ、自分の大切な娘の死ということに、初めて直面してみて、今まで頭では割り切れていたことが、割り切れていたつもりになっていたことが、実はそうではなかった。それどころか、まったく正反対であったのです。
人は死んだら灰になって、それでもうおしまい。そんなふうには、とてもとても愛娘の死は、受け入れることが出来なかったのでありましょう。
この私たちは如何でしょうか・・・・
頭だけで考えて、「お浄土なんて、ある訳無いじゃない」誰も行って、見て来た人が、実際にいる訳ではないし、本当に有るのか無いのか、はっきりわからないものを、信じても仕方が無いでしょう・・・・
西方極楽浄土って言うから、真西に有るって言うけれど、西へ西へ行くと地球は丸いから、またもとに戻るだけじゃないか・・・・そんなふうに、理屈をこねたり、ただ頭で考えて判断してはいないでしょうか。
元気な時、物事が順調な時はそのように考えるかもしれませんが、いつでも、ことが順調に運ぶとは限りませんよね・・・また、何時何時までも、年をとらず、病気にもかからず、死を迎えない人などいないですよね・・・
老・病・死、老いること・病(やまい)にかかること・死ということは全ての人に当てはまることであり、誰一人として逃れることは出来ません。老いというものを感じるようになってきたり、突然病に倒れたり、もしくは死ということが目の前に迫ってきてから、「私はこの先どうしたらいいんだろう」、「この不安な気持ちは何とかならないのだろうか」と慌て、もがいても、すぐに解決することはできません。必ず誰にでも訪れる老い・病(やまい)・そして死ということであります。
何かが、この身の上にあってからではなく、今この機会に、もう一度よく見つめてみたいものです。この世を生きていく上で、また老いや病に襲われた時、そして自分の命の終わりが迫って来た時、恐れや不安にさいなまれなくても済む為には、心の杖となるもの、これだという信仰を持つことが大切です。頼りとする信仰を持っているか、それとも持っていないか、これはずいぶん違いがあると思います。何かあってから、それでは信仰を持ちましょうか・・・・そんな訳にはいきませんね。
浄土宗の檀信徒にとって、頼りとさせて頂けるもの、心の杖となるものは、阿弥陀様のお誓いである「本願」に他なりませんね。阿弥陀様の本願とは、「我が名を南無阿弥陀仏と称えるものは、必ず我が西方極楽浄土へ救い取るぞ」という阿弥陀様のお誓いです。南無阿弥陀仏と阿弥陀様の本願を信じてお称えすれば、必ずお浄土にお救い頂けるのであります。
心の中に頼りとするもの、心の杖となる、しっかりとしたお念仏の信仰が頂けたならば、何も無い行き当たりばったりの状態に比べて、どれほど心安らかに過ごせることでありましょうか・・・
お念仏のお称えにより、間違いなく西方極楽浄土に往生、往き生まれさせて頂けるのです。決して、人は死んだら灰になって、もうそれでおしまいでは、ないのであります。阿弥陀様の西方極楽浄土があり、そこに往き生まれさせて頂けるのです。
ひとえに阿弥陀様の本願をお頼みして、南無阿弥陀仏とお念仏のお称えを喜びながらそれぞれの日暮をさせていただきましょう。 合掌十念