凡夫(ぼんぶ)の心 わが心

南無阿弥陀仏   圓福寺住職 池 田 常 臣

私達は、誰でもが心に煩悩をもち、いつも貪りの心や怒りの心、そして愚かさの心に振り回されて、ひとときも心を落ち着けることがきません。あれも欲しいこれも欲しいと、足ることを知らずに必要以上に貪る心、足ることを知り程々であればまあ良し、とすればいいのですが、何ぶん頭で解っていてもなかなかその貪りの心が収まらないのあります。また、周囲の人や身の回りの物事に対して、そんなに怒らずともいいと思えることでも、怒りの心や恨みの心が湧き上り鎮まり、また湧き上がっては鎮まりというように、その怒りの炎に翻弄されて、自らコントロールすることができないのです。

さらには、自分は物事の道理ということ位は、ある程度わきまえているから、そんなにばかげた言動や愚かな行いは、いくらなんでもすることはないと思っている。しかし気が付くと、頭ではよーく解っているつもりでいたにもかかわらず、とんでもない言動をしてしまうことがあるものです。そのようにいつでも貪りの心 怒りの心 道理に暗く愚かさの心といった自身ではどうすることもできない煩悩に振り回され、片時も心を落ち着かせ、穏やかな気持ちでいることがなかなか出来ない、この我が身の上なのであります。

そんな具合ですから、長い時間一つのことに心を集中して取り組んだり、何かをなし遂げるということもなかなか叶いません。所謂、煩悩にがんじがらめになっている「凡夫」なのであります。

法然上人はこう申されております。「私達凡夫の心は物を見たり聞いたりするにつけて移ろいやすいのです。たとえて言うならば猿が枝から枝へ渡って動き回っているようなものです。本当に散り乱れて動きやすく、心を鎮め集中することが難しいのです。」と

そんな私達ですから、難しい仏教の学問修業をひたすら打ち込んだり、ましてや自らの力でとことん修業を積み重ねて悟りを得ることなど、とてもとても叶わないのであります。

法然上人はそんな私達の人柄をよく見つめられて、どうしたら凡夫のこの私達をちゃんと修業に向かわせて、その修業が続けられ、そして間違いなく救いとられていく教えはないだろうかと、長い間の学問修業なされ探し求められたのです。そして25年以上に亘る学問修業の末示されたみ教えが、南無阿弥陀仏とお念仏を声に出してお称えするということなのです。

阿弥陀様は、本願を信じ、わが名を称える者は一人残らず必ず救い取るぞーとお誓い下さっています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・と声に出して、お念仏を称えていくだけで、いいのであります。

修業を続けたくても続けることの出来ない、凡夫である至らないわが身でありますが、阿弥陀様がいて下さり、南無阿弥陀仏と阿弥陀様の救いを信じて称え続けたならば、必ず西方極楽浄土に救い取っていただけるのです。こんなわが身であっても、こんなわが身であるからこそ、信じ称えればお救いいただけるのです。

そして、いつでもどこでも、どんな状況であっても、どのような心持の時でも、お称えしていいのです。また、何かの行動している時でも、例えばウォーキングしながらでも、洗濯物干しながらでもいいのですよ。じっとしている時でも、例えば考え事の合間でも、そして椅子や畳や公園のベンチで座っている時でも、車で移動中でも、マッサージチェアでマッサージ受けながらでも、さらには寝る前や起きた時、ソファで一休みの時でもいいのですよ。このようにどのような状況でお称えしてもよいのですから、無理がなく続けることができるのです。

法然上人お示しのお念仏は、このように心が揺れ動き散乱している私達凡夫の為に、いつでも、どんな状況でもおこなえる行であり、阿弥陀様を信じ称えれば必ず救われるのであります。

此の事を正しく受け取り、共に念仏相続に励んで参りましょう。

 

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