「驕慢の心をつつしむ」

南無阿弥陀仏

 故吉川英治氏は、『宮本武蔵』や『新平家物語』で著名な作家ですが、亡くなる二年前の昭和三十五年、文化勲章を受章されました。その授賞式の朝、このような句を詠まれて
います。

「菊の日や もう一度紺がすり 着てみたし」

「日本の中で、ほんのわずかの人しか貰うことのできない最高の栄誉をいただくことになったけれど、自分はそんな立派な勲章をもらえるような人間ではない。それなのにもったいないことだ。ここで威張ってはいけない。そり返ってはいけない。今こそもう一度、あの紺がすりの着物を着て勉強した書生時代の気持ちになって、勉強しなければ……。」
という謙虚な気持ちから詠まれた句だそうです。
 実に尊い心持だと思います。

人はこのように等別な賞を頂いたり、ある程度の地位についたりすると、有頂天になりがちです。冷静に若かりし過去を振り返ったり、つらかった時のことを思い返したりはしないものです。

吉川英治氏のように、自分自身の原点を見つめ直し、思い上がりの心を自ら治めることは実に大切でありますね。

この吉川氏が作品にとりあげられた剣豪宮本武蔵は、「我以外皆我師なり」という言葉を残しています。自分以外の、人でも物でも皆、自分に何かを教えてくれる先生だという意味です。
 私達は皆、この世に生を受けた時は、言葉も知識も何も知らずに生まれてきます。その後両親や家族、友人や仲間、学校の先生、また自分を取り巻く環境や自然などから、いろいろなこと学び、吸収して成長していきます。
 ところが、成長するにしたがっていつのまにか「素直に学ぶ心」を忘れ、相手様や人様の未熟さが気にかかるようになってはいないでしょうか。自分自身を見つめるより人様のあらが気に係ってくるのです。

 また自分と他人を比較して、自分のすぐれているところを何とか見つけ出そうとするようになってくるものなのです。

 法然上人は、このようにお示し下さっておられます。「まじめにお念仏をお称えして、いかにもそれらしい念仏者になってくると、多くの人を見るにつけて、みな自分の心より劣り、あきれるほどひどいものだ。自分こそがよいのだという思いから「私は何と立派な念仏者なのだろう。誰よりもすぐれている」と思うようになってくる。

 こうした心こそ、よくよく慎まなければならないとの仰せであります。このように、お念仏を続け、しっかりお称えができるようになってくると「私ほどの念仏者はそうそういるものではない」と奢り高ぶり、思い上がりの心が湧き上がってくるものです。しかしながら、この思いあがりの心こそ、くれぐれも起こさぬよう用心しなければならないのです。

 常日頃お念仏のお称えを続けていたとしても、このように思い上がりの心が起こったならば、肝心要の、真実、誠の心も消え失せてしまうのです。そうなると、阿弥陀様の本願にかなわぬことになり、阿弥陀様や沢山の仏様方のお守りも頂けなくなり、ついには往生することさえ出来なくなってしまうのです。

 くれぐれも思い上がりの心を起こしてはなりません。どんなにお念仏を称えしっかり継続できたとしても、阿弥陀様の本願を心から頼りとしていくことを、何より心掛けねばならぬとお受け取りいただきたいのであります。

「初心忘れるべからず」・・・どんなにお念仏をお称えする人になったとしても「私ほどの念仏者はそうそういるものではない」という思い上がりの心を起こしてはなりません。

どうぞ、此のことを正しくお受け取りいただき、共に念仏相続に励んで参りましょう。                           合掌十念

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